2009年12月25日金曜日

行田市の偉人

 円澄/えんちょう 壬生/みぶ 天台宗僧侶
  行田市 772~837(宝亀3年~承知4年)
 天台宗の僧侶で、18歳の時、唐の僧鑑真の高弟道忠の弟子となった。27歳の時比叡山に登り、最澄の門に入り、最澄とともに、天台宗の発展に尽力し、ついには初代天台座主最澄に続き、第2代座主に補せられた。



 
 小川 一真 おがわ かずまさ 明治時代の写真家 芸術クリックすると新しいウィンドウで開きます
  行田市 1860~1931(万延元年~昭和6年)
 米ボストンで写真と写真印刷(コロタイプ印刷)、乾板製造法を取得。東京で写真館を開業しながら、古社寺宝物の撮影を依頼される。
美術誌「国華」の写真と印刷を全て行う。明治43年帝室技芸員。明治天皇の大葬の際には写真撮影を担当。
明治中期において写真師の地位を向上させるとともに、コロタイプ印刷の普及、乾板の国産化に尽力した功績は高い評価を受けている。

 川島奇北/かわしまきほく 川島得太郎/かわしまとくたろう 俳人・句集「田園」文学クリックすると新しいウィンドウで開きます
  行田市 1866~1947(慶応2年~昭和22年)
 明治31年、高浜虚子の紹介で正岡子規の門弟となる。
「ホトトギス」の最長老の同人、埼玉の明治俳壇三傑の一人。埼玉県内の俳誌のほとんどを指導。
 昭和6年「ホトトギス」の第14回武蔵野探勝会が自宅で開かれ、虚子はじめ多くの俳人が集う。句集『田園』。

 
 小山 健三 こやま けんぞう 銀行家・〈関西の渋沢〉産業
  行田市 1858~1923(安政5年~大正12年)
 明治32年、大阪の(株)三十四銀行(後の三和銀行)の頭取に就任。以来25年間、関西経済界の重鎮として「関西の渋沢」と称される。

 林 頼三郎 はやし らいざぶろう 大学教育の振興に尽力 教育クリックすると新しいウィンドウで開きます
  行田市 1878~1958(明治11年~昭和33年)
 昭和13年中央大学長、27年中央大学総長。大学の振興に尽力。

秩父市の偉人

 伊古田 純道 いこた じゅんどう 伊古田 寧(本名)医師・日本最初の帝王切開手術
  秩父市 1802~1886(享和2年~明治19年)
 医師。秩父市に生まれ、幼名を富次郎、名は寧、字を致遠、忌み名を重満、通称を純道、楢陵または白茅樵舎主人と号した。23歳の時、武州比企郡番匠村(現比企郡ときがわ町)の産婦人科医小室元長につきオランダ医術を学び、後、江戸に出て諸名家につき医学及び和漢の学を究め、帰郷して開業した。当時秩父郡の医学は漢方医を主としており、洋医は流行らなかったが、嘉永5年オランダ医術による帝王切開術決行の機会が訪れた。純道と武州秩父郡南川村(現飯能市)の蘭方医の両医師により、逆子の難産に苦しむ妊婦(本橋みと)の一命を救うために、我が国最初の帝王切開術が決行された。胎児は既に死亡しており、窮餘の策として行われたものの、手術は見事に成功し、産婦の一命を取り留めている。

 柿原 萬蔵 かきはら まんぞう 秩父鉄道開設功労者 産業クリックすると新しいウィンドウで開きます
   秩父市 1860~1919(万延元年~大正8年)
 秩父地方の産業開発・振興のためには物資輸送網の整備が不可欠であることを説いて、秩父・館林間に鉄道を整備するために、明治27年(1894)上武鉄道期成同盟会を組織し、これを母体に上武鉄道会社(秩父鉄道)を設立し、社長に就任した。同33年熊谷を起点として工事に着工すると、寄居までは平坦地ということもあり工事も順調に進み、翌34年10月に開通した。しかしこの間、日清戦争の経済不況から資金繰りが滞り、社長・役員は無報酬で、私財をつぎ込み工事費に充てるという状況が続いた。寄居から秩父方面への延長工事は、株主の配当要求、寄居町民の反対などがあって、役員層からも中断もやむを得ないとする意見が出されたが、萬蔵は延長工事を強く主張し、36年4月波久礼駅まで開通した。
その後、萬蔵の後を継いだ柿原定吉は、中断していた秩父盆地への延長工事に取り組み、渋沢栄一らの協力を得て、大正3年(1914)秩父駅まで開通させた。

 島崎 殿慈 しまざき とのじ 教育者 教育
  秩父市(旧荒川村)1848~1928(嘉永元年~昭和3年)
 明治40年教職を退き、その後は農業の傍ら小笠原流礼法を講じ、子弟が教えを請うた。

 
 清水 武甲 しみず ぶこう 写真家 芸術
  秩父市 1913~1995(大正2年~平成7年)
 写真家。秩父市に生まれ、昭和2年秩父大宮尋常小学校を卒業後、1年間の修行を経て、16歳で家業の写真館を継いだ。昭和12年全日本写真連盟関東本部写真展において文部大臣賞を受賞し、このころより記録写真を撮り始める。昭和17年毎日新聞社主催の日本写真美術展にて第二席を受賞した。昭和21年仲間と「ぎんなん社」を結成し、図書館活動、牛乳の共同購入、演劇活動、前進座等の団体、当時の文化人等を招へいし公演活動を行った。昭和22年以降国画会写真部会展にて活躍し、以後当地方の文化活動の中心となった。

 高野 三郎  たかの ささぶろう 剣道家
  秩父市 1862~1950(文久2年~昭和25年)
 剣道家。秩父市に生まれ、祖父である忍藩松平下総守の剣術指南高野苗正につき小野派一刀流組太刀を学び、5歳の時これを藩主の御覧に入れ、「奇童」の二字を拝領した。20歳の時甲源一刀流岡田伝七郎との試合に敗れ、志を立て上京し、後山岡鉄舟の門人となり、23歳で警視庁師範を務め、ほどなく多年にわたる宿望岡田との試合に勝利した。明治21年、山岡鉄舟没するや佐三郎は完全にその後継者と世に認められ、師に倣って鎌倉建長寺に参禅して心身の鍛練に励んだ。やがて警視庁を辞し、一旦秩父明信館に帰って父の道場に門弟を教え、また、浦和にも道場を開き、傍ら師範学校・警察の剣道教師を拝命、その後東京九段に道場(修道学院)を開き、大正5年嘉納治五郎の知遇を得、東京高師の剣道教授となり、昭和11年、同校勅任教授となった。明治から大正へかけての間、4回にわたって天覧試合に優勝し、昭和4年、同9年の天覧試合には審判長を務めた。今日の武道界発展の基礎を築いた人物である

 
 武島 務 たけしま つとむ 医師・森鴎外「舞姫」のモデル
  秩父市 1863~1890(文久3年~明治23年)
 近代文学史上不朽の名作といわれる森鴎外の処女作『舞姫』の主人公である太田豊太郎の設定には、秩父郡太田村(現秩父市)出身の軍医、武島務の生涯が色濃く投影されていた。太田豊太郎の名前も、務の出身地秩父郡太田村の太田と、鴎外の実名である林太郎とを合成して命名したものと考えられる。務は秩父市に生まれ、明治19年私費留学生として、ドイツのベルリン大学へと遊学した。一方、鴎外も軍医留学生として2年前にドイツへ渡っており、ベルリンの地で二人は邂逅をし、親交を重ねている。その後、務の実家から送金を頼まれていた人物が学費を着服、仕送りが途絶えたことをめぐり、務は仲間から中傷を受け、帰国命令が下った。これを拒否して留学を続けるうち、明治20年、免官処分が下され、軍職を失うことになった。それから3年後、務が27歳の時、ドレスデンで結核のため、短い不遇の生涯を閉じた。帰国した鴎外が『舞姫』を発表した4ヶ月後のことだった。

 普寛 聖人/ふかん せいじん 木村 好八丸/きむら こうはちまる 胃薬「百草」創始者
  秩父市(旧大滝村)1731~1801(享保16年~享和元年)
 普寛聖人は享保16年5月大滝村に木村信次郎の子として誕生、少年時代より剣術を好み、一時は酒井雅楽頭家で25人の扶持を得ていたという。天明2年、傅灯大阿闍梨となり寛政4年木曽御嶽山開山、次いで寛政6年越後の八海山開山、更に寛政7年上州の武尊山を開山した。胃薬「百草」の創始者であり、巡錫中貧しき人々を救い、木食普寛とも称した。享和元年秩父へ帰ろうとして本庄宿米屋弥兵衛方にて死す。享年71歳。

 森 玄黄斎/もり げんこうさい 清浄軒/せいじょうけん 芸術家・精微細密な彫刻家
  秩父市(旧荒川村)1807~1886(文化4年~明治19年)
 精微細密な彫刻を本領とし、他にも絵画、書道、詩文にも優れたマルチ芸術家である。生家の秩父市(旧荒川村)、入婿先の小鹿野町には玄黄斎の書画が多く残され、文化財に指定されている。特に11歳の時の作「将棋の駒」細刻「孔子とその弟子3,000人」は有名である。

 山中竹渓/やまなかちっけい 山中恭義/やまなかやすよし 書画家「小原女二人の図」 
  秩父市(旧荒川村)1830~1913(天保元年~大正2年)
 漢籍と絵画を学び、塾を開いて門人80余名を数えたという。その他貧をあわれみ、慈善の行いがすこぶる多く、村民がその徳をたたえた。

 山野 忠吉 やまの ちゅうきち 柔術家
  秩父市(旧荒川村)1884~1969(明治17年~昭和44年)
 気楽流柔術の免許皆伝師範として自費で道場を作り、門入200余人を数えたという。

 

2009年12月18日金曜日

坂戸の偉人

 大川 平三郎 おおかわ へいざぶろう 実業家・製紙法改良 産業クリックすると新しいウィンドウで開きます
  坂戸市 1860~1936(万延元年~昭和11年) 
 実業家。坂戸市に生まれ、13歳で上京し、叔父渋沢栄一家の書生となる。
16歳で、現在の王子製紙会社に入社後、製紙法研究のため、単独で米国留学し、帰国後、材料・工程の改良を行った。その後、多くの会社の社長や取締役に就任した。
また、三芳野小学校の建設や越辺川の堤防工事に多額の私財を提供し、郷土の発展に尽くした。大正14年に大川育英会を組織し、多くの学生を育成した。

 鈴木 嘉幸 すずき かこう/鈴木 長吉 すずき ちょうきち  鋳金家・「鷲」ほか
  芸術  坂戸市 1848~1919(嘉永元年~大正8年)
 芸術家。坂戸市に生まれ、鋳物師の弟子となり、鋳金の技術を習得する。
写実的な動物の鋳造にすぐれ、明治18年のニュールンベルグ万国金工博に出品した「鷲」は、多くの絶賛を受けた。
明治29年には、鋳金家としては初めて、帝室技芸員に選ばれた。
東京国立博物館にも作品が収蔵されている。

 中島 歌子 なかじま うたこ/中島 うた なかじま うた 歌人・和歌を教授 文学
  坂戸市 1844~1903(弘化元年~明治36年)
 歌人。坂戸市に生まれ、幼くして江戸へ出る。夫と死別後の24・5歳頃に歌人加藤千浪に師事し、歌道に専念する。歌道のめざましい上達により東京の自宅に歌塾「萩の舎」を開き、上流階級の子女や樋口一葉らを指導した。
また、日本女子大学創立と同時に和歌の教授に就任した。

 長島 伝十郎 ながしま でんじゅうろう 教育者・植物研究家 教育
  坂戸市 1878~1927 (明治11年~昭和2年)
 教育者、植物研究家。川越市に生まれ、埼玉師範学校卒業後、入西小学校で教鞭をとり、明治34年から大正6年までの15年間を同小学校校長として勤務した。
また、植物に関心が深く、県内では坂戸市と秩父地方に自生している「ステゴビル(県指定天然記念物)」を発見した。

川越の偉人

 赤沢 仁兵衛 あかざわ にへい  甘藷栽培改良家、赤沢式増収
 川越 1837~1920 (天保8年~大正9年)
 甘藷栽培改良家。入間郡今福村(現川越市今福)の人。川越一帯で栽培していたサツマイモの収量を上げるため、赤沢式増収法を考案した。


 奥貫 友山 おくぬき ゆうさん 奥貫 正卿(本名)おくぬき まさのり
  教育者・慈善事業家 川越市 1708~1787 (宝永5年~天明7年)
江戸時代中期の慈善家で教育者。奥貫家は久下戸村(現川越市)の名主を代々勤めた家柄で、寛保2年の大洪水の際には、私財を投げうって罹災者救恤に尽力した。
また、寺子屋兼漢学塾を開設し、郷党の子弟教育にも貢献した。



 高林 謙三 たかばやし けんぞう 医師・製茶機械発明家 産業クリックすると新しいウィンドウで開きます
  川越市 1832~1901(天保3年~明治34年)
 製茶機械発明家。川越小仙波で医者を開業する傍ら、製茶機械の研究に着手した。明治18年に生茶葉蒸器械・焙茶器械・製茶摩擦器械・改良扇風機の特許を取得し、明治31年には茶葉粗揉機を完成、特許を取得した。

1年生共通の課題