秩父市 1802~1886(享和2年~明治19年)
医師。秩父市に生まれ、幼名を富次郎、名は寧、字を致遠、忌み名を重満、通称を純道、楢陵または白茅樵舎主人と号した。23歳の時、武州比企郡番匠村(現比企郡ときがわ町)の産婦人科医小室元長につきオランダ医術を学び、後、江戸に出て諸名家につき医学及び和漢の学を究め、帰郷して開業した。当時秩父郡の医学は漢方医を主としており、洋医は流行らなかったが、嘉永5年オランダ医術による帝王切開術決行の機会が訪れた。純道と武州秩父郡南川村(現飯能市)の蘭方医の両医師により、逆子の難産に苦しむ妊婦(本橋みと)の一命を救うために、我が国最初の帝王切開術が決行された。胎児は既に死亡しており、窮餘の策として行われたものの、手術は見事に成功し、産婦の一命を取り留めている。
柿原 萬蔵 かきはら まんぞう 秩父鉄道開設功労者 産業
秩父市 1860~1919(万延元年~大正8年)
秩父地方の産業開発・振興のためには物資輸送網の整備が不可欠であることを説いて、秩父・館林間に鉄道を整備するために、明治27年(1894)上武鉄道期成同盟会を組織し、これを母体に上武鉄道会社(秩父鉄道)を設立し、社長に就任した。同33年熊谷を起点として工事に着工すると、寄居までは平坦地ということもあり工事も順調に進み、翌34年10月に開通した。しかしこの間、日清戦争の経済不況から資金繰りが滞り、社長・役員は無報酬で、私財をつぎ込み工事費に充てるという状況が続いた。寄居から秩父方面への延長工事は、株主の配当要求、寄居町民の反対などがあって、役員層からも中断もやむを得ないとする意見が出されたが、萬蔵は延長工事を強く主張し、36年4月波久礼駅まで開通した。
その後、萬蔵の後を継いだ柿原定吉は、中断していた秩父盆地への延長工事に取り組み、渋沢栄一らの協力を得て、大正3年(1914)秩父駅まで開通させた。
島崎 殿慈 しまざき とのじ 教育者 教育
秩父市(旧荒川村)1848~1928(嘉永元年~昭和3年)
明治40年教職を退き、その後は農業の傍ら小笠原流礼法を講じ、子弟が教えを請うた。
清水 武甲 しみず ぶこう 写真家 芸術
秩父市 1913~1995(大正2年~平成7年)
写真家。秩父市に生まれ、昭和2年秩父大宮尋常小学校を卒業後、1年間の修行を経て、16歳で家業の写真館を継いだ。昭和12年全日本写真連盟関東本部写真展において文部大臣賞を受賞し、このころより記録写真を撮り始める。昭和17年毎日新聞社主催の日本写真美術展にて第二席を受賞した。昭和21年仲間と「ぎんなん社」を結成し、図書館活動、牛乳の共同購入、演劇活動、前進座等の団体、当時の文化人等を招へいし公演活動を行った。昭和22年以降国画会写真部会展にて活躍し、以後当地方の文化活動の中心となった。
高野 三郎 たかの ささぶろう 剣道家
秩父市 1862~1950(文久2年~昭和25年)
剣道家。秩父市に生まれ、祖父である忍藩松平下総守の剣術指南高野苗正につき小野派一刀流組太刀を学び、5歳の時これを藩主の御覧に入れ、「奇童」の二字を拝領した。20歳の時甲源一刀流岡田伝七郎との試合に敗れ、志を立て上京し、後山岡鉄舟の門人となり、23歳で警視庁師範を務め、ほどなく多年にわたる宿望岡田との試合に勝利した。明治21年、山岡鉄舟没するや佐三郎は完全にその後継者と世に認められ、師に倣って鎌倉建長寺に参禅して心身の鍛練に励んだ。やがて警視庁を辞し、一旦秩父明信館に帰って父の道場に門弟を教え、また、浦和にも道場を開き、傍ら師範学校・警察の剣道教師を拝命、その後東京九段に道場(修道学院)を開き、大正5年嘉納治五郎の知遇を得、東京高師の剣道教授となり、昭和11年、同校勅任教授となった。明治から大正へかけての間、4回にわたって天覧試合に優勝し、昭和4年、同9年の天覧試合には審判長を務めた。今日の武道界発展の基礎を築いた人物である
武島 務 たけしま つとむ 医師・森鴎外「舞姫」のモデル
秩父市 1863~1890(文久3年~明治23年)
近代文学史上不朽の名作といわれる森鴎外の処女作『舞姫』の主人公である太田豊太郎の設定には、秩父郡太田村(現秩父市)出身の軍医、武島務の生涯が色濃く投影されていた。太田豊太郎の名前も、務の出身地秩父郡太田村の太田と、鴎外の実名である林太郎とを合成して命名したものと考えられる。務は秩父市に生まれ、明治19年私費留学生として、ドイツのベルリン大学へと遊学した。一方、鴎外も軍医留学生として2年前にドイツへ渡っており、ベルリンの地で二人は邂逅をし、親交を重ねている。その後、務の実家から送金を頼まれていた人物が学費を着服、仕送りが途絶えたことをめぐり、務は仲間から中傷を受け、帰国命令が下った。これを拒否して留学を続けるうち、明治20年、免官処分が下され、軍職を失うことになった。それから3年後、務が27歳の時、ドレスデンで結核のため、短い不遇の生涯を閉じた。帰国した鴎外が『舞姫』を発表した4ヶ月後のことだった。
普寛 聖人/ふかん せいじん 木村 好八丸/きむら こうはちまる 胃薬「百草」創始者
秩父市(旧大滝村)1731~1801(享保16年~享和元年)
普寛聖人は享保16年5月大滝村に木村信次郎の子として誕生、少年時代より剣術を好み、一時は酒井雅楽頭家で25人の扶持を得ていたという。天明2年、傅灯大阿闍梨となり寛政4年木曽御嶽山開山、次いで寛政6年越後の八海山開山、更に寛政7年上州の武尊山を開山した。胃薬「百草」の創始者であり、巡錫中貧しき人々を救い、木食普寛とも称した。享和元年秩父へ帰ろうとして本庄宿米屋弥兵衛方にて死す。享年71歳。
森 玄黄斎/もり げんこうさい 清浄軒/せいじょうけん 芸術家・精微細密な彫刻家
秩父市(旧荒川村)1807~1886(文化4年~明治19年)
精微細密な彫刻を本領とし、他にも絵画、書道、詩文にも優れたマルチ芸術家である。生家の秩父市(旧荒川村)、入婿先の小鹿野町には玄黄斎の書画が多く残され、文化財に指定されている。特に11歳の時の作「将棋の駒」細刻「孔子とその弟子3,000人」は有名である。
山中竹渓/やまなかちっけい 山中恭義/やまなかやすよし 書画家「小原女二人の図」
秩父市(旧荒川村)1830~1913(天保元年~大正2年)
漢籍と絵画を学び、塾を開いて門人80余名を数えたという。その他貧をあわれみ、慈善の行いがすこぶる多く、村民がその徳をたたえた。
山野 忠吉 やまの ちゅうきち 柔術家
秩父市(旧荒川村)1884~1969(明治17年~昭和44年)
気楽流柔術の免許皆伝師範として自費で道場を作り、門入200余人を数えたという。
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